こんにちは、カウンセリングサービスの町村ゆきです。
ブログにお越しくださりありがとうございます。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私が書いているこのブログには、拍手が出来る機能がついているんですね。
皆さまから拍手をいただいて、私のブログがたくさんの方に読んでいただけていることに、喜びを感じております。
本当にありがとうございます。
ただ、先日書いた記事に、びっくりするくらいの拍手がされていて、
こんなに拍手をしてくださる私のファンの方がいるんだ!と、
めちゃくちゃ嬉しくなったのですが、
でも、ふと思ったです。
あれ?私ってそんなにファンがいたっけ?って。
これはもしかしてあの人の仕業かな?と思い、聞いてみる事にしました。
あの人とは、【私のお母さん】です。
電話をかけて母に聞いてみました。
「あのさ、私のブログに拍手とかした?」
「うん!あれ、何回も押せるやろ?、いっぱい押したろうと思って100回まで押してん。頑張っちゃった!すごいでしょ?」
ああ・・・、やっぱり母・・・。
すごいでしょ?って、なんだよ・・・。
拍手は嬉しいけど、こんなに押されてたら、組織票みたいに思われるじゃん。
(結果として、組織票ですね。)
母が押してたなんて本当に恥ずかしいし、喜んで損した。
私はそんな風に思って、
「なんでそういうことすんの!?恥ずかしいから、もう本当にやめてよ!」
私がそう言うと、母は少し残念そうに言いました。
「ゆきちゃん、ごめんやわ・・・。もう、しない。」
その言葉を聞いて、私はハッとしました。
『拍手ボタンを押したのは、母が私のことが大好きで、私の記事を読んで嬉しくなって、私を応援したくて押したんだよね・・・』
これは母の私への愛で、決して私に恥ずかしい気持ちを感じさせるためにやったわけではないのだ!!
そう思い直して、
「おばあちゃんごめん、言い過ぎた。嬉しいけど、でも、これからは拍手は少なめにして欲しいよ。」
(我が家では、母のことを皆がおばあちゃんと呼んでいます。)
と、伝えました。
「分かった!拍手は少なめな!」
母の声はパッと明るくなって、電話を切りました。
このように、私の母は、私が恥ずかしく思うかな?とか、私が困るかな?とかは一切なく、私の気持ちにお構いなしに、自分の愛し方で私を愛してくれるのですが、
私は、この母の愛し方が恥ずかしくて本当に苦手で、お願いだから私のことはそっとしといてください。といつも願っていたりします。
今では、母の中にある愛に気づいて思い直せるようになりましたが、その昔はお母さんのことが大嫌いで、死んでも許さないって思っていた時期があります。
今回は、今の母と私になる、これまでを書いてみたいと思います。
よろしければ、お読みください。
私の母はパチンコ依存症でした。
私が小さい頃からずっと母はギャンブルに依存していました。
昔はパチンコだけではなく、近所の仲間と一緒に互いの家に行き来をして、花札に似た株札というものを使って「かちかち」という賭けをしていました。
負けた時の母はいつも機嫌が悪く怖かったのですが、勝った時の母は機嫌が良く、帰り道に私と妹と手を繋いで一緒に歌を歌って帰ってくれるので、小さい私にはそれが嬉しくて母が勝負に勝つことだけを祈っていました。
そんな母と私たちでしたが、私が小学校3年生の時に父と離婚になり、それまで住んでいた大阪から母の実家のある福島に引っ越す事になりました。
引っ越しと同時に「かちかち」の帰り道ともお別れになりました。
本格的な母のパチンコ依存症の到来です。
小学校から帰ってくるといつも母はいません。私は3つ下の妹と一緒にゲームをしたり、本を読んだりして過ごしていました。
「ただいまーっ!帰ったでー!」
玄関で母の声。
その声を聞いて、私は今日はお母さん勝ったんだ!とすぐに分かります。
だって、負けた日はドアを閉める音だけしかなく、ドアの音は半端なく大きいので、部屋全体がドアを閉めた衝撃で揺れ、その衝撃で母が帰ってきた事が分かるため、部屋が揺れた時は母が負けたんだとすぐに分かるからなんです。
食事も豪華な日もあれば、塩おむすびの日もあります。
私は母に勝ったか負けたかを聞いたことはないですが、そこかしこで母のパチンコの勝負の結果を知る事が出来て、エスパー並みにいつでも母の顔色を読みとり、その時々に対応する事が出来ました。
母が勝った日は、私と妹はちょっと我がままを言ったり甘えたりしても許されます。欲しいものを買ってもらえたり、時にはお小遣いももらえました。
でも負けた日の母はとても怖くて、私も妹も良い子にならなくてはいけなかったので、母の機嫌の良し悪しは、私達姉妹にとっては母のパチンコと同じように、勝負事になっていきました。
昨日許されていたことが、今日は怒られたりする。
私も妹も、母の何が正解なのか?が分からなくて、いつもビクビクしていました。
私は今でも人の顔色を伺って、先回りして色々やってしまうところがあるのですが、それはきっとこの頃の母との関係が影響していると思います。
私の成長と共に、母はますますパチンコにのめりこんでお金に執着し、私や妹のことに無関心になり、一方で私は買い物に行ったり、ご飯を作ったり、まるでお母さんのように妹の面倒を見るようになっていきました。
その為、私は小学校の頃は何でもできるお姉ちゃんというイメージが家族の中で定着し、母は私に何でも丸投げするようになっていきました。
私の目に映る母の姿は、私が今日学校であった話も、私の好きな事の話もどうでも良くて、ただ子供たちはご飯を食べて呼吸をしていれば、「大丈夫やろ。」と軽んじているように見えました。
そんな子供時代を過ごしてきたので、母には何も当てにしなくなったか?というと、そうではなく、私は、自分がどれだけ傷ついているかを母に訴えるかのように、思春期には思いっきり反抗期をやりました。
ある時、学校の帰り道に近所の人から
「ちょっとアンタ!お母さんに暴力をふるっちゃいけないよ!それから家のお金も盗んだりしたらだめだよ!!お母さん泣いてたよ!」
と注意されたことがあります。
私は確かに不良だけど、母に暴力を振るった事もないし、お金は盗んだりした事は無いとは言わないけど、それは小さい頃・・・。
どうしても欲しい文房具があって、テーブルの上から100円玉を取ったことはあったけど、むしろいつも物を投げられたり、お年玉の貯金を勝手に使われたりしてたのは私の方だよ?
お母さん、近所の人に私の悪口言ってるんだ・・・。
私のこと、周りの人に嘘を言ってるんだ・・・。
母に嘘をつかれていたという気持ちと、嫌われていたんだという気持ちで、私は母に対して猛烈な怒りが湧いてきて、
あのクソババア!!!絶対に許さない!!!
注:これは、めちゃくちゃ怒った私の子供時代の感情なので、そのままの表現で書かせていただきました。
と、心に決めたのでした。
中学生になった私は、学校にもあまり行かずに家にも帰らず、悪い事と言われるような事をたくさんやりました。
私の反抗期で鬼母だった母も、ほんのり弱くなりましたが、相変わらず私への無関心とパチンコ依存症は続きました。
今思えば、当時の私の反抗は、母に自分の寂しさや悲しみを思い知らせたい一心でやったことなんだと思いますが、私の渾身の反抗期は、母には全くといっていいほどダメージがなく、私が何を訴えても、のれんや豆腐にパンチをしているような手ごたえしか感じ無くて、母にとっての私の存在感の薄さを逆に思い知らされた感じがして、母のこともそうだけど、今度は自分のこともますます嫌いになっていきました。
私は、自分自身を【どうでもいい】扱いをするようになったのはちょうどこの頃からです。
母に愛されてないと思い、私はさらに母のことを敵対視するようになっていきました。
次回に続きます。
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ここまで読んでくださりありがとうございます。
町村ゆき
ブログにお越しくださりありがとうございます。
ご存じの方もいらっしゃると思いますが、私が書いているこのブログには、拍手が出来る機能がついているんですね。
皆さまから拍手をいただいて、私のブログがたくさんの方に読んでいただけていることに、喜びを感じております。
本当にありがとうございます。
ただ、先日書いた記事に、びっくりするくらいの拍手がされていて、
こんなに拍手をしてくださる私のファンの方がいるんだ!と、
めちゃくちゃ嬉しくなったのですが、
でも、ふと思ったです。
あれ?私ってそんなにファンがいたっけ?って。
これはもしかしてあの人の仕業かな?と思い、聞いてみる事にしました。
あの人とは、【私のお母さん】です。
電話をかけて母に聞いてみました。
「あのさ、私のブログに拍手とかした?」
「うん!あれ、何回も押せるやろ?、いっぱい押したろうと思って100回まで押してん。頑張っちゃった!すごいでしょ?」
ああ・・・、やっぱり母・・・。
すごいでしょ?って、なんだよ・・・。
拍手は嬉しいけど、こんなに押されてたら、組織票みたいに思われるじゃん。
(結果として、組織票ですね。)
母が押してたなんて本当に恥ずかしいし、喜んで損した。
私はそんな風に思って、
「なんでそういうことすんの!?恥ずかしいから、もう本当にやめてよ!」
私がそう言うと、母は少し残念そうに言いました。
「ゆきちゃん、ごめんやわ・・・。もう、しない。」
その言葉を聞いて、私はハッとしました。
『拍手ボタンを押したのは、母が私のことが大好きで、私の記事を読んで嬉しくなって、私を応援したくて押したんだよね・・・』
これは母の私への愛で、決して私に恥ずかしい気持ちを感じさせるためにやったわけではないのだ!!
そう思い直して、
「おばあちゃんごめん、言い過ぎた。嬉しいけど、でも、これからは拍手は少なめにして欲しいよ。」
(我が家では、母のことを皆がおばあちゃんと呼んでいます。)
と、伝えました。
「分かった!拍手は少なめな!」
母の声はパッと明るくなって、電話を切りました。
このように、私の母は、私が恥ずかしく思うかな?とか、私が困るかな?とかは一切なく、私の気持ちにお構いなしに、自分の愛し方で私を愛してくれるのですが、
私は、この母の愛し方が恥ずかしくて本当に苦手で、お願いだから私のことはそっとしといてください。といつも願っていたりします。
今では、母の中にある愛に気づいて思い直せるようになりましたが、その昔はお母さんのことが大嫌いで、死んでも許さないって思っていた時期があります。
今回は、今の母と私になる、これまでを書いてみたいと思います。
よろしければ、お読みください。
私の母はパチンコ依存症でした。
私が小さい頃からずっと母はギャンブルに依存していました。
昔はパチンコだけではなく、近所の仲間と一緒に互いの家に行き来をして、花札に似た株札というものを使って「かちかち」という賭けをしていました。
負けた時の母はいつも機嫌が悪く怖かったのですが、勝った時の母は機嫌が良く、帰り道に私と妹と手を繋いで一緒に歌を歌って帰ってくれるので、小さい私にはそれが嬉しくて母が勝負に勝つことだけを祈っていました。
そんな母と私たちでしたが、私が小学校3年生の時に父と離婚になり、それまで住んでいた大阪から母の実家のある福島に引っ越す事になりました。
引っ越しと同時に「かちかち」の帰り道ともお別れになりました。
本格的な母のパチンコ依存症の到来です。
小学校から帰ってくるといつも母はいません。私は3つ下の妹と一緒にゲームをしたり、本を読んだりして過ごしていました。
「ただいまーっ!帰ったでー!」
玄関で母の声。
その声を聞いて、私は今日はお母さん勝ったんだ!とすぐに分かります。
だって、負けた日はドアを閉める音だけしかなく、ドアの音は半端なく大きいので、部屋全体がドアを閉めた衝撃で揺れ、その衝撃で母が帰ってきた事が分かるため、部屋が揺れた時は母が負けたんだとすぐに分かるからなんです。
食事も豪華な日もあれば、塩おむすびの日もあります。
私は母に勝ったか負けたかを聞いたことはないですが、そこかしこで母のパチンコの勝負の結果を知る事が出来て、エスパー並みにいつでも母の顔色を読みとり、その時々に対応する事が出来ました。
母が勝った日は、私と妹はちょっと我がままを言ったり甘えたりしても許されます。欲しいものを買ってもらえたり、時にはお小遣いももらえました。
でも負けた日の母はとても怖くて、私も妹も良い子にならなくてはいけなかったので、母の機嫌の良し悪しは、私達姉妹にとっては母のパチンコと同じように、勝負事になっていきました。
昨日許されていたことが、今日は怒られたりする。
私も妹も、母の何が正解なのか?が分からなくて、いつもビクビクしていました。
私は今でも人の顔色を伺って、先回りして色々やってしまうところがあるのですが、それはきっとこの頃の母との関係が影響していると思います。
私の成長と共に、母はますますパチンコにのめりこんでお金に執着し、私や妹のことに無関心になり、一方で私は買い物に行ったり、ご飯を作ったり、まるでお母さんのように妹の面倒を見るようになっていきました。
その為、私は小学校の頃は何でもできるお姉ちゃんというイメージが家族の中で定着し、母は私に何でも丸投げするようになっていきました。
私の目に映る母の姿は、私が今日学校であった話も、私の好きな事の話もどうでも良くて、ただ子供たちはご飯を食べて呼吸をしていれば、「大丈夫やろ。」と軽んじているように見えました。
そんな子供時代を過ごしてきたので、母には何も当てにしなくなったか?というと、そうではなく、私は、自分がどれだけ傷ついているかを母に訴えるかのように、思春期には思いっきり反抗期をやりました。
ある時、学校の帰り道に近所の人から
「ちょっとアンタ!お母さんに暴力をふるっちゃいけないよ!それから家のお金も盗んだりしたらだめだよ!!お母さん泣いてたよ!」
と注意されたことがあります。
私は確かに不良だけど、母に暴力を振るった事もないし、お金は盗んだりした事は無いとは言わないけど、それは小さい頃・・・。
どうしても欲しい文房具があって、テーブルの上から100円玉を取ったことはあったけど、むしろいつも物を投げられたり、お年玉の貯金を勝手に使われたりしてたのは私の方だよ?
お母さん、近所の人に私の悪口言ってるんだ・・・。
私のこと、周りの人に嘘を言ってるんだ・・・。
母に嘘をつかれていたという気持ちと、嫌われていたんだという気持ちで、私は母に対して猛烈な怒りが湧いてきて、
あのクソババア!!!絶対に許さない!!!
注:これは、めちゃくちゃ怒った私の子供時代の感情なので、そのままの表現で書かせていただきました。
と、心に決めたのでした。
中学生になった私は、学校にもあまり行かずに家にも帰らず、悪い事と言われるような事をたくさんやりました。
私の反抗期で鬼母だった母も、ほんのり弱くなりましたが、相変わらず私への無関心とパチンコ依存症は続きました。
今思えば、当時の私の反抗は、母に自分の寂しさや悲しみを思い知らせたい一心でやったことなんだと思いますが、私の渾身の反抗期は、母には全くといっていいほどダメージがなく、私が何を訴えても、のれんや豆腐にパンチをしているような手ごたえしか感じ無くて、母にとっての私の存在感の薄さを逆に思い知らされた感じがして、母のこともそうだけど、今度は自分のこともますます嫌いになっていきました。
私は、自分自身を【どうでもいい】扱いをするようになったのはちょうどこの頃からです。
母に愛されてないと思い、私はさらに母のことを敵対視するようになっていきました。
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